論語」のなかに、次のような言葉がある。「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆うし。」
最近、とみに思うのだが、知識と思考とは、車の両輪のような関係にある。片方だけ大きくしても、結局は思うように前には進めない。2つの車輪が同じ大きさだからこそ、真っ直ぐ前に進むことができる。道が舗装してあれば、車輪が小さくても、車輪を回せば回すだけ、前に進める。未舗装の道ならば、ある程度の大きさの車輪が不可欠だろうし、場合によっては、車輪に特殊な加工が必要かもしれない。しかし、いずれにせよ、車輪の大きさが左右等しくなければ、前に進むことは困難である。
振り返れば、私は知識を軽んじていたのかもしれない。どんな機会であれ、それ相応の知識をそこから得ることはできる。読んでいる書籍からかもしれないし、目の前にいる会話の相手かもしれないし、テレビから聞こえる声からかもしれない。そして、自分自身の思考からかもしれない。それを自らの頭の中に保存しているだけでは、結局のところ、多くの有意味な知識を棄ててしまっていることになるのではないか。
知識の体系化は、最終的には自らの頭の中でしかできないのだとは思う。体系化という作業自体、極めて能動的な作業であり、思考の関与なしにはなしえない。ただ、その思考を体系化した知識として利用していくためには、何らかの作業が必要だったのかもしれない。あのとき学んだこと、考えたこと、それがはたしてすべて残っているだろうか。もちろん、全部残す必要などないのだが、残っていればと思えるあのことが失われていたりはしていないだろうか。
書くという作業の意味は、結局のところ、ここにあるのだろう。少なくとも学問的著作には、そのような側面があることは否めまい。読者などはじめからそこには想定されてはいない。あるのは、自分自身だけである。知識と思考との相互作用がどのような道を進んだのか、そこに他者の関与できる余地はない。読者は、その道すじの残骸から、あるいは知識を得られるのかもしれないが。