人は結局のところ1人で生きるのかもしれないが、社会の中で生きているということもまた1つの事実であろう。社会の中で生きるということは、自分以外の他人の存在を認める必要がある。自分自身と同様に価値のある存在として、他人の存在を認めてはじめて、社会が現れる。
1人で生きてきたときとは異なり、そこには他人が存在する。自分しかいなければ、自分の行動は自分にしか影響がない。だが、他人の存在を認めるならば、自分の行動が他人に影響を与える可能性が出てくる。逆に、他人の行動も自分に影響を与えるかもしれない。そうすると、そこで、互いに行動を調整する必要が現れる。
コミュニケーションは本来的に不安定なのだから、行動の調整など、完全にうまくいくわけはない。ただ、社会に生きるのであれば、少なくとも調整は試みられているはずであろう。
調整に限界を感じたとき、そこにあるのは、チューナーの不備か、それとも電波の不存在か。もし、相手にとって自分自身が他人でないのなら、相手が社会に生きていないのなら、チューナーの改良を試みても、仕方ないのかもしれない。