Good-Bye Fare Ye Well

明日は引っ越し。責任のない時代はもうすぐ終わろうとしている。
匿名に疲れて更新しなくなってから久しいので、いまさらではあるが、もうこのブログを更新するつもりはない。
匿名でいられたのも、責任のない時代だったからだと思う。匿名性が発言の責任から逃避させ、責任からの逃避が逆に発言を限定した。限定されていたからの自由を享受できたのだと思う。
本当に責任のない時代から、責任がないとまではいえない時代になり、自ずと更新から遠のいてしまった。責任を持ちたい欲求が匿名性を嫌悪したからなのかもしれない。
もうすぐ、求めるとにかかわらず責任と同席せざるを得なくなるだろう。やっとまともに社会と向き合うということなのかもしれない。もう、高等遊民的生活を懐かしむこともできなくなるかもしれない。できることならば、精神の核には、高等遊民的要素を残しておきたいものである。
もし、今後ブログを始めるとすれば、おそらく名を明らかにするだろう。このブログとの関係を明らかにすることもおそらくない。
なお、ブログをあえて消去するつもりもないので、このまましばらくは残るのであろう。
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O, fare ye well, I wish you well, Good-bye fare ye well, good-bye fare ye well,
O, fare ye well, my bonny young girls, Hoorah, my boys, we're homeward bound.

時の流れは不可逆にして、あの頃にはもう戻れない。
せめて、あの頃抱いた気持ちには、戻れないのだろうか。
時の流れは、ときに気持ちを傷つけ、そして失わせる。
失われたその気持ちは、時とともに不可逆なのだろうか。

ここで制度論批判を展開したところで所詮が匿名のブログ。主張を展開するなら、しっかりと署名して、自分の発言に責任を持つべきだと思う。しかし、いまだに自分自身の存在を示した文章を書かないでいる。文章を仕事にしたかったはずなのに、この臆病さは何だろうか。この躊躇いが結局のところ、今の私に結実してしまったのだろう。
それでもあえて一言だけ。結局のところ制度の自殺ではないか。理想論で制度設計したところ、現実面が追いつかず、守旧派によって新しい革袋にどんどんと古い酒がつめこまれようとしている。そして、その結果、理想は倒れ、現実は回らず、負のスパイラルに飲み込まれようとしているのではないか。サイはたしかに投げられた。でも、過ちは改めるべきではないか。どうせならば理想に心中した方がまだ潔い。

多様な人と接することは、自分の視野を広げるには役に立つのだけれど、それが逆に、自分の視野を狭めるようなことになるのならば、考えものである。人に対する敬意を失えば、結局は視野狭窄を生むしかない。他人を他人として受け容れると同時に、自分が自分であり続けられるのならば、それを視野の拡大といってもよいのではないか。学ぶことは真似することなのかもしれないが、魂まで売り渡すべきではない。