好きな言葉

小学校の頃の作文の課題に、「私の好きな言葉」というのがあった。いろいろと考えてみたが、「好きな言葉」なんて、まったく思い浮かばない。本当に好きであれば、考える必要などないはずだ。たかだか数年の言語経験しかないのだから、「好きな言葉」なんてなかったのだろう。考えあぐねた結果、なんとなく「努力」を選んだ。
「努力」という言葉は、不思議と好まれる。「努力」することはすばらしいことだと、なんとなくの共通理解があるようだ。社会で成功した人の物語が語られるとき、必ずといってよいほど、成功までの「努力」が語られる。「努力」があったからこそ今があるのだ、と。
だが、よく考えてみると、語りは結果から始まっている。成功した者の「努力」は語られるが、失敗した者の「努力」が語られることはない。成功した者だけが「努力」したのだろうか。それとも、結果が伴うものだけを「努力」というのだろうか。
「努力」は耳に美しい。それは、誰もが納得できるからだろう。あれだけ「努力」したのだから、と。でも、それは結局、自分から目を背けているのにすぎないのではないか。成功した者だって、本当は「努力」のみでないことは知っているはず。なぜなら、それは自分だからできたことなのだから。