歴史年表というのは便利なものであるが、丸暗記をしても歴史を学んだとはいえない。しかし、年表を暗記することによって、事項が整理され、結果として歴史的な感覚を身につけることもあろう。つまり、ただ丸暗記することに意味はないが、個々の事項を学び、理解したうえでならば、暗記することによって整理できるというメリットがある。
この立場は暗記による整理はその前提に高度な理解を必要とするという立場だが、これとは逆の考えもあろう。すなわち、個々の事項の理解を深めるためには、とりあえず年表を丸暗記しておくことに意味があるという立場だ。この立場からすれば、丸暗記自体には意味がないのだが、後に個々の事項を学び、理解を深めることで、当初は無意味だった丸暗記が、意味のあるものに変化しうることになろう。
後者の立場は寺子屋的といえるかもしれない。意味がわからなくても論語素読させることそれ自体に意味があるとは思えない(もちろん、論語を覚えていること以外で何らかの効用があるのかもしれないが、それはこの議論とは関係がない)。しかし、成長とともに、いつの間にか論語の解釈がわかるようになり、その結果、無意味であった素読が突如意味のあるものに変わるわけだ。
この2つの立場は、丸暗記自体に意味はないと考えるところで一致している。両者の見解の相違は、学習を進める上での地図の必要性といえばよいだろうか。前者の立場からすれば、地図を見て、全体的にものをみるよりは、まず個々の事象にじっくりと取組み、そのうえで全体を見渡すことを求める。ミクロ的な事象を重視しているといってよいだろう。これに対して後者の立場は、意味はわからなくても、まず全体像をつかむことを要求する。マクロ的な雰囲気をつかんだうえでミクロに取り組むことによって、個々の理解を深めることができるという立場である。
別の言い方をすれば、前者は帰納的な思考方法に親和的であり、後者は演繹的な思考方法に親和的といえるかもしれない。前者の方法論は、ミクロの集積にマクロの理解を求める者であり、マクロはミクロを前提にしているが、後者の方法論は、マクロの理解に照らして個々のミクロの理解を深めるものだからである。
この理解が正しければ、全体像として確固とした法則が成り立っている分野には後者の方法論がよく、個々の事象の積み重ねとしてしか全体像が存在し得ない分野には前者の方法論がよいといえそうだ。問題は個々の分野がどちらに分類されるかである。入門書や入門的な授業において最も大切なのは、どちらに属するかを知らせることなのかもしれない。