備忘

安念潤司「国家vs市場」『ジュリスト』1334号82〜93頁
面白い論文だ。『ジュリスト』の「日本国憲法60年」特集の論考。著者は憲法学者。なお、同じく憲法学者の長谷部恭男教授は、著者を称して「あまり憲法の論文を書かないんだけど、書いたものは面白いわよ」と述べている(『Interactive憲法』33頁参照)。
法律家集団の反市場主義についての論文。まずは、判例を分析、そして定期借家権・最低売却価格制度・ロースクール問題などに関する法学者・法律家の反応を挙げて、法律家集団が反市場主義的であることを述べたうえで、反市場主義の起源として、「1940年体制」・「モラル・エコノミー」を挙げる。著者は市場主義の立場から、このような法律家集団のあり方に疑問を投げかけている。
法律家集団には、どうも「正しさ」が暗黙の前提とされているように思える。正義を追い求め、「正しい」解決を志向すること自体、特に悪いことではないのかもしれないが、しかし、そこでいう「正しさ」とは何なのだろうか。人間が作ったものに過ぎない法律から「正しさ」が明らかになるはずもない。「正しい」こと自体は耳に響きがよいかもしれないが、それが自明だというだけでは、それに違和感をもつものを説得することはできない。自分の正義を他者に押し付けることが正義といえるのか。それを是とするのは、聖戦は絶対に正しいということに等しい。私が感じていたこの「正しさ」への違和感を、著者は歴史学から「モラル・エコノミー」の概念を借りて説明しているように思える。著者の分析は、伝統的な法律学からみれば異端なのかもしれない。だが、もしそうだとすれば、実は法律学が学問のうちでは異端なのではないか。
なお、私は著者の見解に完全に賛同するものではない。著者は法律家集団とひとくくりにする。しかし、国家制度の設計上(現行制度がどういう設計をしているか自体の見解の相違なのかもしれないが)、裁判所は法律の執行の事後審査をする役割を担うものであって、また主権者からの直接の正統性根拠をもたない以上、立法府の判断に対して違憲判断を慎重にすることは制度上当然ともいえる。問題は、裁判所や国家機関に属するものではない弁護士、法学者、その他の法律家である。彼らは反市場主義的な主張をすることで、自らの権益を維持・増大できるからこそそういう主張をしているのだとすれば、まさしく利益団体である。つまり、判例の分析は国家機関側の態度のあらわれであるのに対し、その他の法律家集団の主張は市場主義側からすれば「抵抗勢力」である。裁判所も著者からすれば「抵抗勢力」なのだろうが、「国家vs市場」の枠組みを前提にするならば、国家機関自体が「抵抗勢力」なのはある意味当然である。
だからこそ、市場主義的立場からの行動指針としては、裁判所に頼るのではなく、立法へと向かうべきではないのか。民主政治であるからには、国会で勝負すべきであろう。しかし、現行制度では国会へのアプローチが限定されすぎている。だからこそ、請願やロビー活動、あるいは市民運動にもっと目を向ける必要があるのではないか。しかし、著者自身も法律家であり、また法律雑誌に掲載される論文であるのだから、裁判所に議論が向かうのはやむをえないのかもしれない。