昨日の日記のリンク元に「社会科 三権分立」というキーワードが。そういえば、最高裁判所の裁判官を調べたことがあったなあ。
せっかくなので、三権分立の理解についての教科書批判を。三権分立という言葉自体は学校で必ず教わるはず。少なくとも中学校の公民の教科書には、太字で載っている(小学校の教科書は確認していないが、小学校でも私自身は教わった気がする)。しかし、三権分立の教科書的理解が、はたして妥当なものかどうか、大いに違和感がある。
中学校の教科書・参考書類を見ると、上部に立法府、左下に行政府、右下に司法府を配置して、それぞれの相互関係を示す矢印が引いてある。そして、中央に主権者たる国民を配置し、そこから三権に向けて矢印を引く。立法府に向けては「選挙」、司法府に向けては「国民審査」、そして、行政府に向けては「世論」。
なるほど、主権者たる国民を中心に、国政の権限分配を理解させる目的なのだろう。だが、なぜ「世論」があるのだろうか。三権の相互作用、それから選挙・国民審査は、いずれも制度的なものである。国民審査のように、実効性がはなはだ疑わしいものもあるが、それらはすべて日本国憲法が予定している制度である。これに対して、世論とは何だろう。もちろん、これは制度ではない。世論を調査する仕組みがそもそもないのに、いったい内閣はどうやって世論の意向に従うというのか。選挙や国民審査とは、明らかに質的に異なる。
質的な差異を無視してまでも、「世論」という矢印を引いたのは、おそらく三権の分立を強調したいからだろう。教科書・参考書類作成者は、おそらく無意識であろうが、大統領制的なモデルを描いている。国家元首も議会も国民の選挙により選ばれる。両者ともに、国民を代表し、自己の正統性を主張できる。だが、日本は大統領制ではなく、議会制をとっている。内閣の長は、議会によって任命され、解任される。内閣は国会に対して連帯して責任を負う。政治学佐々木毅教授は、「議会制は権力分割モデルの端的な否定の上に成り立つ」と、適確に述べている(『政治学講義』168頁)。
日本のシステムは、立法府と行政府との権力の共有を前提とする。そういう制度なのだから、国民から行政府への矢印がないのは当然である。しかし、そうすると、三権分立を否定しているかのように思えるのだろう。だが、そうだろうか。それはあまりにも短絡的な三権分立理解ではなかろうか。三権分立はそもそも権力の厳格な分離を前提にしていないのではないか。
詳論はまたの機会にするとして、いくら初等中等教育であるとはいえ、あまりに短絡的な発想はよくない。教科書作成者には深謀遠慮があるのかもしれないが、それが教育の現場にまで理解されているとは思えない。長年、塾で社会科を教えていて、三権分立について、どうも誤った理解をしている生徒が多いように思えるのは、やはり教科書のあり方に問題があるのではないかと思う。