受験産業ともあと数回でお別れというのに、今日の授業は大失敗だった。今までもったクラスのなかでいちばん難しいうえに、復帰前は経験のない国語科であることが災いしているのだろうか。生徒に申し訳ないと思うとともに、自らの未熟さを恥じる。
しかし、塾で受験国語を教えるということは、どういうことなのだろうか。これが難関校の進学塾ならば、生徒の読解力等が相当程度に高度であることを前提にしてもよいだろう。だが、今の塾は決してそうではない。学習塾でもあり、進学塾でもある。その微妙な位置づけが混迷を深めさせている。
生徒はいったい何を望んでいるのだろうか。国語は他の科目と違って、これを覚えればよいという最低限がない。もちろん、漢字の知識や文法の知識は必要だが、それだけで国語ができるわけでもない。いっそのこと漢字と文法に割り切ろうかとも思った。だが、塾に漢字ドリルはなく、塾長に購入を打診するも断られた。範囲の指定のない漢字教育は無理だ。
そうすると読解をさせないといけない。最終的には公立高校の入試問題という目標がある。それに向かっての読解力をつければよい。だが、受験学年にない生徒からすれば、受験というのはまだまだ先のこと、実感があるわけもない。これが難関進学塾であれば、受験学年でなくても、多少の意識はあろうが、本当に全くない。受験国語の経験があれば自明だろうが、中学の国語教科書の文章と、高校入試国語の文章とは、質的な差がある。そうすると、受験を意識すればするほど、学校とはずれてしまわざるをえない。生徒にはそこが不満なのかもしれない。
ならばいっそ、学習塾と割り切ればよいではないか。しかし、生徒の学校がバラバラである。学校によって、教科書も違えば、進度も違う。そうすると、学校にあわせた授業は不可能だし、一部の学校にあわせれば、他の生徒が飽きる。他の学校の生徒のための授業だと思うと、聞きたくなくなる気持ちはよくわかる。
結局、基本的な読解力を身につけさせるという選択肢が残った。しかし、それにたどり着くまでに時間がかかりすぎた。その時点で残された回数は、もう一桁しかなかった。もともと半年の約束だったのだから、はじめからそれほど回数が多かったわけではない。だが、それにしても遅かった。
方法もよくなかったかもしれない。作文と要約という方法は、必ずしも生徒にとって幸せではない。私の国語力に対する理解と、そして私の経験からすれば、この方法は間違ってはいない。だが、生徒にはくだらないように思えるのかもしれない。よくできるからくだらないのであればよいのだが、できないのにくだらないと考えているのがなんとも辛い。
今回のクラスは4クラス。他の3クラスは中高とも受験学年。受験学年の指導はたやすい。目的がはっきりしているからこそ、少々厳しくしても、少々甘くしても、生徒は自分で考えて調整できる。調整の仕方を見定めて、それにあわせて教え方も変えられる。だが、残りのクラスはそうはいかない。生徒は決して調整しない。
結局、私は彼らに何を残せたのだろうか。塾講師歴は長いが、国語は、個別指導で経験がないではないが、本格的なものは今回がはじめてだ。科目経験の浅さが問題だったと結論するのはたやすいが、その犠牲たる生徒にはなんと言えばよいのか。これからも塾講師を続けるのならば、その償いとして翌年の授業をよくすることもできる。もちろん、そうしたところで犠牲者たる生徒は救われないが、はじめからベテランにはなれないのだから、宿命として諦めることもできよう。だが、私は今月でもうこの業界からは去るのだ。
人生設計の都合上、半年間だけというわがままなお願いで、復帰した。やはり、これは許されないことだったのかもしれない。残された回数は本当にわずかだが、そのわずかの間に、せめて何かを残せたらよいのだが。