塾を禁止する根拠は?

ノーベル化学賞を受賞した野依良治博士が座長をつとめる教育再生会議規範意識・家族・地域教育再生分科会のなかで、「塾は禁止に」との発言をしたという報道があった。自分自身の経験を考えると、そして塾業界で長年アルバイトをしている身としては、信じられない発言だ。
趣旨がよくわからないので、早速原文にあたる。12月8日の「規範意識・家族・地域教育再生分科会」において、「放課後子供プラン」についての議論のなかで、次のような発言がある。(太字・イタリックは引用者による。なお、発言者について若干説明すると、葛西敬之委員はJR東海会長。陰山英男委員は立命館小学校の副校長で、100ます計算の実践で有名。小宮山宏委員は東京大学総長で、専門は地球環境工学小野元之委員は、元文部科学省事務次官で、日本学術振興会理事長。中嶋嶺雄委員は国際教養大学学長で、専門は国際関係論。)

(野依座長)
塾をやめさせて、放課後子供プランをやらせといけない塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う。
(葛西委員)
今は中学の受験が主体となって、学校のシステムがおかしくなったので塾が生き残っている。しかし、順番が逆で、塾禁止の前に公教育の再生が先である。
(野依座長)
公教育を再生させる代わりに塾禁止とする。それくらいのメッセージを出していいのではないか。昔できていたことが何故今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。大学も誰でも入れるようになっている。難しくない。塾の商業政策に乗っているのではないか。
(葛西委員)
しかし、日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある。
(野依委員)
それは学校がやるべきこと。もちろん学校は再生させなければならないが、その代わりに塾をやめさせる。そして、遊びだけではなく、文化・文芸を勉強する。
(事務局)
公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。再生されれば結果的になくなる。再生が先にある。
(陰山委員)
昔と違って、体で感じて勉強することがなくなっている。それを考えると何らかの形で人工的に補ってやることが必要。
塾で問題なのは、勉強のさせ方だと思っている。睡眠時間を削って勉強すれば良くなるという、やらせ方が良くないと思う。
昨今、学力が落ちていると言われているが、競争社会の中で小さい頃から勉強をやって、塾も行って、それでも学力が落ちているのはどういうことか。
(野依座長)
私は文化力の低下だと思う。算数、数学だけやっていても力がつくものではない。だから放課後子供プランは是非ともやらなければならない。
(小宮山委員)
学力が落ちてきたかどうかは非常に難しい。以前とは学問分野も変わっており、明確には分からない。ただ国語力は明確に落ちたと思う。
(陰山委員)
そういうことを考えると、教育内容の問題や生活習慣の問題について、もう少し調査して、エビデンスをとった上でやっていかないと駄目だと思う。文科省の学力テストで生活習慣のアンケートも同時に行われる。そういうデータからエビデンスをとって考えて、改革の方向を決めて欲しいとも思う。
(小宮山委員)
ちゃんと朝ごはんを食べて、睡眠をとることが大事ということは明らか。先の学力の問題と分けて考える必要がある。
(野依委員)
我々のころは、部活もやって、その後、休憩してご飯を食べて、勉強していた。塾も行っていない。
(小野委員)
テクニックばかり教えたから学力が落ちた。それと学問の領域が広がったから。
(小宮山委員)
確実にいえることは、抑える教育は駄目。伸びる子にはどんどん難しいことをやらせることが必要。
(中嶋委員)
野依座長がおっしゃったように塾禁止ぐらいの大きい提言をやらないと。
(小野委員)
韓国では、かつて公務員の子供が塾に行く事は禁止していた。今はやめているが。
(事務局)
入試をやめて、卒業試験にすれば塾はいらなくなるかもしれない。塾禁止が先ではない。
(中嶋委員)
第3分科会ではそれをやろうと私は思っている。

野依博士は本気で塾を禁止しようとしているようだ。その根拠は、強調部分からも明らかなとおり、塾は出来ない子がいくためのものだという信念と、自らの体験による。
なるほど、野依博士の時代では、塾は出来ないこのためのものだったかもしれない。しかし、今は時代が全く異なる。高等教育への進学率も異なれば、大学の位置づけも変わったといえるのではないか。それとも、時代をこえても、野依博士の信念は正しいものなのだろうか。
事務局が一貫して、順序が逆だと述べているのは正論だ。今あるシステムを破壊するのが目的だとしても、とりあえず破壊してしまえば、そのシステムでうまくいっていたものもすべて失うことになる。どんなに問題が多くとも、すでにシステムとして確立している以上、ただ破壊するのは危険が大きすぎる。野依博士は公教育が再生すれば問題ないだろうという。それはそのとおりだと思うが、なぜ再生が成功するとわかるのだろうか。再生がうまくいかない場合だって当然ありえる。その場合のことを考えれば、まず既存のシステムを破壊することから始めるというのは、かなりのリスクを覚悟しなければならない。
ひょっとすると、今ある塾というシステムには何の利点もないという考えかもしれない。しかし、それが現実に根付いている以上、もし百害あって一利なしであると思っているのなら、それを積極的に立証しなければならないだろう。その根拠が、自分自身の体験と信念というのはあまりにもお粗末である。
古き良き時代を懐かしむのは自由である。町の小さな塾で国語や社会を教えていても、自分の受けた教育とのギャップに驚くことがある。野依博士が大学で感じたことは、きっと私の比ではなかろう。とはいえ、今ある現実の問題を乗り越えるためには、ただ古き良き時代を懐かしむだけではいけない。古き良き時代と今とでは、おかれた背景が異なりうる。あの頃には通用していた常識も、社会的条件が異なれば、もはや非常識になることだってある。
公教育の再生は必要なことだろうし、そのこと自体に反対する人は、たぶん皆無だろう。だが、そのために今あるシステムを破壊するのは行きすぎである。改革が確実に成功するとはかぎらない。漸進的であっても、妥協と評されても、保守的といわれても、現実をふまえた改革を考えてもらいたいものだ。
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