読了

鄭大均在日韓国人の終焉』文春新書(2001) ISBN:4166601687
著者の主張は、特別永住者たる在日韓国人日本国籍を取得することでアイデンティティと帰属とのずれを解消すべきである、というものだ。多くの在日韓国人は日本人と変わらない生活をしており、韓国は父母あるいは祖父母の故郷であっても、もはや自らの故郷ではなく、外国に近い存在になっている現状をふまえて、韓国籍を有しながら韓国人意識に欠け、外国籍を有しながらも外国人意識に欠けるというアイデンティティと帰属のずれを解消するために、アイデンティティに合わせて帰属を変える、すなわち日本国籍を取得して日本社会のフル・メンバーとして、コリア系日本人として生きていけばよいという。
著者の主張には納得させられる部分が大きい。外国人の人権の問題は憲法でよく議論されるテーマのひとつだが、その際、特別永住者をどう考えるかという、日本特有の問題にぶつかる。昨年1月の大法廷判決(最判平成17年1月26日民集59巻1号128頁)においても、特別永住者であることを考慮すべきかが問題になった(なお、この事件の原告は著者の実妹である)。しかし、特別永住者といっても、もはや日本で生まれ、日本語を母国語として、日本文化のなかで暮らす人が多数を占める(そして、韓国にいつかは帰ると主張する人が比較的少数になった)現在においては、簡易な日本国籍取得制度をつくることで、特別永住者制度を解消していくという方途をとるのもひとつの案である。ようは、特別永住者制度は近い将来にその役割を終えるべきだというのである。ポイントは、それが在日韓国人側にとってこそ意味があると述べる点である。
しかし、国籍というものを果たして著者ほどドライにとらえてよいのだろうか、私にはよくわからない。たしかに、国籍というものは単なる標識にすぎないともいえる。人権保護を担う国家がどこかを示すだけのものであって、それ以上の意味はないのだと。だが、国籍には単なる標識をこえたもの、民族の出自を示す意味もあるのではないかと思われる。国籍について生地主義をとるならば民族の出自とは切り離されているといえようが、日本のように血統主義を原則とする国籍法をもつ国は、別に珍しいものではない。しかも、日本は単一民族神話が強い国だともいわれる。ならばなおさら、国籍=民族という感覚があるのではないか。もしそういう感覚があるのだとすれば、特別永住者として生きることこそが、著者の述べるコリア系日本人として生きることになるのではないか。
もちろん、そこでのアイデンティティが日本社会の加害者性の「生き証人」たるための使命感であるならば、それをアイデンティティとする本人にはよいだろうが、他の在日韓国人には迷惑な話なのかもしれない。だが、国籍を維持することで民族の出自を感じたいという、素朴な感覚を純粋に持っているだけの人がいるのであれば、一部の主張が好ましくないからといって、国籍取得に踏み切れということは誰にもできないだろう。著者の主張からすれば、そういう人がもしいたら、もっと外国人意識を強くもつべきだということになるだろう。
結局のところ、国籍にどれほどの意味を見出すかという問題に帰着する。比較的均質性の高い社会に暮らしているからこその問題であると同時に、そういう社会だからこそ、国籍に対する感覚が欠け、すれ違った主張が飛び交う。日本における国籍の意味について、一度じっくり考えてみたい。