試験を前提とした教育と理想に忠実な教育

履修漏れ問題が世間をにぎわせている。現実的な問題としては、履修漏れの3年生をどう救うのかだろう。指導要領に従わない以上、卒業できないのか、それとも何らかの救済措置を用意するのか。生徒に責任はないのだから救済措置を、というのが後者の論者の言い分だろうが、あまりに露骨にやってしまうと、指導要領に従っていた学校の生徒が損をすると言われかねない(学年内不平等)。履修漏れが1校だけの問題ならば、不平等回避のためにも補習を受けてもらうことになっただろう。
だが、現実はそうはならなかった。履修漏れは次々に発覚。しかも、実は今年に始まった問題ではなかった。そうすると、救済措置を否定することが別の不平等を生んでしまう。すなわち、救済措置をとらないと従前の卒業生との間に不平等が生じる(学年間不平等)。結局、あちらをたてればこちらがたたない状況になってしまった。
今回の問題をどうするかはさておき、恒常的に履修漏れが行われている以上、現行の学習指導要領は教育の現場に合っていないことは明白だ。学習指導要領が仮に教育の理想を体現しているのだとしても、目の前に大学受験が控えている進学校にとって、高校教育の最終目的が大学受験合格になるのはやむをえない。大学受験対策をどう行うかが高校の使命になるのは当然だ。学習指導要領がその使命を邪魔するのであれば、履修漏れが起こるのは自然だろう。現実的な解決策は、受験対策を邪魔しない学習指導要領にするか、学習指導要領にそった大学受験にするかのどちらかだろう。もちろん、受験対策はすべて予備校に任せればよいという極論もあるが、それは予備校のない地域を切り捨て、しかも高校教育を実質的に空洞化させることになってしまい、教育政策としてとりうるものとは思えない。
生徒に責任がないのだとすれば、責任は学校にあるのか。たしかに学校は自らの意思でルール違反をしたわけで、責任があるのは当然だろう。だが、学校は本当に悪いのか。自らの使命に忠実なだけともいえる。だからこそ、これだけ大規模な問題になったのだ。学校の責任は重いにしても、構造的な問題を除去しなければ、本質的な解決にはなりえない。次に試験がひかえる以上は、試験が教育内容を規定する。教育内容を独自に規定したところで、受験がひかえる以上、理想だけに忠実な教育はのぞめない。