瞬間のスポットライト

まずは石廊崎へ。伊豆半島最南端、風の強いことこのうえなし。海は荒れていて、遊覧船も揺れる揺れる。でも、こういう船の揺れは好きだ。やはり私にも漁師の血が流れているのだろう。海ってやっぱりすばらしい。
午後からは河津七滝へ。『伊豆の踊子』は読んだはずなのだが、全く覚えていない。突然じゃなかったら、読み返さないまでも見返すくらいはできたのに、残念だ。とはいえ、河津駅から七滝へ。大滝は見たのだけれど、雨がパラパラ。散歩するには辛そうだし、大滝だけで帰途につく。やっぱり滝っていいなあ。滝は大きければいいわけでもない。滝の音、空気の色、水の感触。滝にはそれぞれによさがある。
下田に戻ると、ホテルに帰るにはまだちょっと早い。ということで昨日行けなかった玉泉寺へ。ここは初代米国総領事館、ハリスはここにいたのだ。日米関係のはじまりの場所のひとつである。ここには米国人の墓もロシア人の墓もある。プチャーチンのディアナ号はかの安政の大地震津波で沈没。異国の地で見慣れぬ大波に命をさらわれた水兵の思いは何だったのか。墓の前で考えた。
そういえば、昨日立ち寄った公園にはカーター記念碑があった。碑の前で会話していた高校生カップルには申し訳なかったが、夕暮れのなか碑を見学したのだった。日米関係は下田に始まる。それは友情だけではなかった。碑には希望があろうとも、歴史とはそれだけではない。そこに何を見るかは見るものの主観であり、歴史とは主観的選択の集合なのだろう。そこでなされる物語の選択は、未来への希望のあらわれか、それとも過去への絶望か。単なる社交とは思いたくない。
ホテルへの帰途、弁天島による。吉田松陰が密航を企図して潜んだ場所。かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂赤穂浪士に手向けたこの歌に、松陰は何を思ったか。
思えば下田という町は、日本の歴史のなかで、ほんの一瞬だけ主役になったのだろう。歴史散歩はすべてペリーからハリスへの一瞬にある。近代の幕開けたるこの瞬間に下田は突然主役になった。だが、あっという間に御役御免。この瞬間のスポットライトを下田はどうとらえているのだろうか。そして、語られる歴史はこの町をどう思っているのだろうか。