芝生の青さ

隣の芝生はどうしても青く見える。隣の芝生は隣のものであって自分のものではない。だから結局のところよく見ていない。よく見ていないからこそ、見たい部分だけ見る。何が見たいかといえば、結局、自分で評価可能なところ、というより、評価したい部分しか見ない。とすると、その時点でもっとも自分が気にしているところを中心に見てしまう。自分の芝生の青さが気になっていれば、どうしても隣の芝生の青さに目がいく。自分の芝生の青さが気になる分だけ、隣の芝生の青さを気にする。そしてその青さに劣等感を感じることになる。もちろん、隣の芝生がどうしようもない芝生であればそんなことはないのだろうが、そういう芝生はそもそも見ようとしない。見たくなるのは、自分と同程度、あるいは少し上のクラスの芝生だろう。あえて青さだけを見ているのだから、どうしたって隣の芝生は青くなる。はじめから青いものを見て、青いといっているだけなのだから。
だったら自分の芝生だけ見ていればよいのか。だが、そうすると比較の基準が失われる。隣の芝生があるからこそ自分の芝生も青いのであって、隣の芝生が青くなければ、自分の芝生も青くない。青いかどうかは比較してはじめて決まることであって、単独では決まらない。結局、青さを気にしているかぎりにおいて、つねに隣の芝生を見なければならず、見ようとする隣の芝生は前述のとおり、どうしたって青くなければならない。
結局、自分の芝生はいつまでもたっても青くはなってくれない。青さにこだわるかぎり隣の芝生はつねに青く、青さへのこだわりを捨てると、もう芝生は青かろうが関係ない。青さとは、なんともむごたらしい概念ではないか。