今日のビックリマン東京ヤクルトスワローズ古田敦也西武ライオンズ松坂大輔。また松坂か。
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今日でひと仕事終えた。先日、私についてムラッ気を指摘されたのだが、今回の仕事を通して、なんとなくその意味がわかった気がする。一言で言ってしまえば、この分野に関しては、緻密性を欠いているのだろう。なんとなく、感覚的な議論で済ましてしまっている。感覚的な議論というのは、別にそれ自体悪いことではない。ただ、分析的な視点に欠けるのは、がっちりとした基礎がないことを意味するのではないか。
他者に教えるという作業は、自らの欠点を浮き彫りにする。これまでの自分が、いかに大雑把な論理展開で満足し、大づかみな議論で満足していたか、よくわかる。全体を見通す意味で、このような大局観とでもいうべき感覚は不可欠である。だが、そこに安住するあまり、基礎的なトレーニングを軽視してきたのではなかったか。
たとえていえば、私の会得したことは家の設計なのだろう。だが、家を建てるためには設計だけでは足りない。堅固な家をつくるには、立派な材料が必要である。私にはその視点がなかった。ただ、見た目だけはそれなりの材料をかき集め、適当につなぎあわせて設計図どおりの家を建ててきた。
大工の仕事たる組み立てについては、かつて別の分野でそれなりの訓練を受けてきた。今回の家の建て方のトレーニングについても、それは応用可能だった。振り返ればそれが不幸だったのだろう。材料それ自体を堅固にすることを忘れたままに、設計図どおりの家を建てる方法を覚えてしまった。
ムラッ気というのは、結局のところ、不十分な材料をつなぎ合わせているため、ところどころに欠陥が浮き出てくることを指摘したのではなかろうか。いかに設計図がすばらしかろうと、いかに大工の腕があろうと、材料が劣化していれば、建物全体も劣化していると評価せざるをえまい。小手先の技術で綻びをごまかしたとしても、結局そんな鍍金はすぐに剥げる。
せっかくのチャンスを得たわけで、これからは材料自体をいかに堅固にしていくかが課題である。今回の仕事はこれを知っただけで十分に成果があった。しかし、教えられる側はどうだったのだろう。たいへんに申し訳なく思う。