過程のみをそれだけで評価することはできるはずがない。評価するためには、何らかの形で計量可能にする必要があろう。計量可能にするためには、たとえば評価の時点で固定する必要がある。評価というものは静的なものだが、過程は本来的には動的なものである。過程を評価しようとすれば、その動的な要素が失われてしまう。過程を評価するためには、固定するために動的な要素を喪失させることになる。これはつまり、結果から逆算する、すなわち結果だけを判断していることになろう。
過程を評価するというときこえはよいが、結局のところ言葉で場を濁しているだけなのではないか。過程を大切にするということは、結局のところ評価になじまない、何か別の次元の問題ということだろう。あえて過程を評価するとすれば、それはもはや結果を評価するのとかわらない。結果至上主義たるレッテルをおそれる臆病な態度にすぎないのではないか。
この立場からすれば、過程の評価とは、結果をうんだ原因たる要素の摘出なのだろう。原因たる要素を結果にかえて評価することが、過程の評価である。だが、評価されるかどうかは過程それ自体からは切り離されて決定されるのだから、これは結果を評価するために行われる偽装となろう。
だが、偽装とはいえ、そこには何らかの因果関係が示される。そこに意味を見出すことはできる。自己にとっては自らの出自であり、それがアイデンティティとなりうるのかもしれない。他者にとってはひとつの先例となり、模倣の対象たりうるのかもしれない。いわゆる合格体験記は、まさに模倣対象の典型だろう。
だが、翻って考えてみると、実は論理的には模倣対象たりえない。その過程は結果の評価によってはじめて摘出されたものである。だが、その摘出において、客観性を担保するものは何もない。原因たる要素なんて恣意的な摘出によって創りあげられたものにすぎないのである。
過程を大切にするということは、結局のところ同一性保持の意味しかないのだろう。これはもはや自己満足の世界である。だが、もし何らかの方法でそれを他者と共有できるのであればどうだろうか。それが国家であればナショナリズムとなろうか。