読了

坂本多加雄歴史教育を考える』PHP新書(1998) ISBN:4569559751
新しい歴史教科書をつくる会」が世間で騒がれたのはいつのことだったろうか。もうずいぶんと前のことのように感じる。私自身としては、会の考え方に賛同できない部分が多く、それどころか違和感を覚えることも多々ある。だからといって、歴史教科書の現状、そして初等教育における歴史教育の現状に満足しているわけでは決してないのだが。
本書は、著者の歴史教育に対する考え方を述べたものである。著者は会の一員であるが、著者の考え方にはほとんど違和感はない。ただ、やはり賛同できないところも大きい。
著者は、歴史教育の課題として、学問的観点とは別に、歴史の共有に基づく国民意識の養成を掲げる。そして、フィクション性の強い「国民の物語」の必要性を説く。なるほど、国民という概念自体、そもそもフィクションであるならば、その形成にかかわる物語も当然にフィクション性が強い。そして歴史教育の課題を国民意識の養成にみるならば、著者の議論はもっともだといえよう。著者の見解にたてば、少なくとも小学校・中学校の歴史教科書とは、「国民の物語」を語るものであり、日本人として、物語を共有するきっかけとなるものなのだろう。
しかし、はたして初等教育における歴史教育の主眼は、国民意識の養成なのだろうか。著者も述べるように、個人はさまざまな所属意識をもつ。家族の一員でもあり、地域コミュニティの一員であり、より広い地域社会の一員でもあり、国民の一員でもある。そして、より広域な、たとえば東アジアに生活する一員でもあり、漢字文化圏の一員でもあり、いわゆる先進国諸国民の一員でもあり、地球社会の一員でもある。このような複数所属のうちのなぜ「国家の物語」だけをとりあげる必要があるのだろうか。所属意識の養成をはかるのであれば、たとえば初等教育のはじめにおいては、より狭い「地域社会の物語」もあってよいのではないか。そしてより年齢が上がれば、より広い、たとえば「地球社会の物語」も必要となるはずである。なぜ「国家の物語」だけでよいのかについて、説得的な議論はみられない。たしかに著者は福澤のいう「偏頗心」を引用して、現実における「国家」・「国民」の重要性は述べている。それはもっともだろう。だが、だからといって、「国家の物語」だけが必要ということにはならないはずだ。相対的に重要であるにすぎない。だとすれば、「国家の物語」だけ強調するのは、不十分なのではないか。ただ、重要な論点にしぼったのだとすれば主張は理解できる。ただ、それを明示した方が、より受け容れられる主張になるのではないかと思う。
だが、より重要なのは、本当に「国家の物語」が必要なのかという点である。諸外国がどうあれ、真に必要かどうかはそれ自体大いに議論すべき問題であろう。この議論を展開すれば、きっと著者の引用する山崎正和の見解、すなわち歴史教育の全廃論につながるのではなかろうか。著者はこの見解に対して、時期尚早なものであり、しかも現状に対しては迂遠と述べる。たしかに現状対策としては迂遠かもしれないが、歴史教育とは何かを考えるにあたっては、非常に重要な問題だと思われる。
最後に、歴史教育についての著者の見解にたっとしても、特に近隣諸国に対する政治的配慮に関する見解には疑問を覚える。著者は歴史教育の原則と政治的配慮は区別されるものと力説するが、はたしてそうだろうか。「国家の物語」はフィクションであり、物語の形成においては、さまざまな政治的判断が絡んでくるのではないか。だとすれば、あえて近隣諸国に対する政治的配慮だけ、歴史教育の原則から離す必要はないのではなかろうか。