読了

藤子・F・不二雄『パラレル同窓会(藤子・F・不二雄異色短編集4)』小学館文庫(1995) ISBN:4091920640
本巻掲載14話中6話がカメラの話。藤子・F・不二雄はカメラが好きだったのかな。ドラえもんの秘密道具にそれほどカメラがあったとは思えないのだが。着せ替えカメラしか思いつかない。
表題作「パラレル同窓会」。数日前のブログに、「5年前にそれに気づいていれば、もっと違った人生を歩んでいたのだろうなあ」と書いたが、まさにそのような作品。「枝分かれしたすべての自分が一堂に会する」パラレル同窓会。「生まれた時は一人の人間がその後の運命のいたずらで、あんなにも多様な人生をたどるのです」。
このアイデアからすれば、私にもきっと多様な人生があったのだろう。これまでのすべての選択の集合が、今の私ということになる。しかし、本当に選択の余地があったのか。よく考えてみれば、実は個々の選択も自分の意思でしているのか定かではない。他の条件をコントロールした実験などできるわけがない以上、結局はわからないのだが、同一条件でありさえすればひょっとするとつねに同じ結果になるのかもしれない。だとすれば、そこに自由意思の介在はないに等しい。この立場からすれば、「運命のいたずら」とは条件の変化だということになろう。カオス理論はよくわからないが、些細な条件変化も結末にいたれば大きな差異を生むことだって自然なことだ。
選択の集合が自由意思の集合なのか、それとも偶然の条件によるものなのか。思弁としては意味があるかもしれないが、現実の生活には何の関係もない。人生は一度しかない。だとすれば、仮に実は偶然の条件に支配されていたとしても、一度しか経験できない以上、それを自由意思と呼んだところで、現実の生活としては同一である。結局のところ、意思が自由だといったところで、あまり深い意味はないのかもしれない。