ひどいめにあった。遅くとも10時には家につくはずだったのに、約3時間の遅れ。タクシー代は本当に電鉄会社に出してもらえるのだろうか。
今日は雨も降っていることだし、家にいようかと思ったのだけど、つい仕事場に行ってしまった。もう少し早く帰るつもりだったけど、あと少しやろうと思って延ばしてしまった。もっと延ばそうかと思ったのだけど、疲れて途中で切り上げてしまった。その結果、たぶん、直前の電車が事故にあったようだ。もう1本はやい電車なら、まっすぐ家に帰れたのだろう。なんともついていない。
隣室の騒音といい、最近ついてないことがあまりにも多い気がする。せっかくだから今のうちに不運は使い果たしたいものだ。
運といえば、藤子・F・不二雄の漫画に「ぼくは神様」というのがある(『ぼくは神様』中公文庫コミック版(1994)ISBN:412202174X)。「確率以上にサイの目を自由にする」力を回収している宇宙確率調製機構管制官ゾロメーは、主人公(神山)の「もし力を返したらどうなるの」という問いに対して、「これまでのうめ合わせに多少運の悪い人になりますな」と答える。このやりとりの前提には強い平等志向がある。運の強さはみな平等でなければならず、今までサイの目を自由にしてきたのだから、その分の埋め合わせをしなければならないのだと。だが、これは運の強さという力をとりあげただけではなく、運のなさを与えたことになるはずだ。確率というのは今後の問題であって、過去は本来関係がないのだから。
神山は力を返し、運のない状態になったあと、最後のコマで「そのうちほどほどのツキをとりもどしてみせるから」とつぶやく。このセリフも同じである。つまり、今、運が悪ければ、そのうち運の良いときがくると。サイの目をもはや思い通りにできない以上、ツキを「とりもどす」ことは不可能である。すべては神の思いのままでしかないはずなのだ。
しかし、こう考えてしまうと、なんとも夢がない。運に関する平等は誰もが信じたいのではないか。不運が続けば次は幸運がくると誰しも思いたいだろう。ピンチのあとにチャンスありというではないか。