まあいろいろあったわけだがどうにかこうにかここまで来たわけで、振り返ってみればよかったのではないかと思う。いろいろあったからこそ今があるわけで、思い返せば、かつての思い入れや熱中が、すべて財産になってくれていたのだと思う。何事であっても全力で取り組めば、必ずそれなりに得るものがある。どこかで手を抜いてしまえば、結局何も手に入らない。本気で立ち向かったことだけが身につくわけで、中途半端な小手先のテクニックで得たものなど、その場限りにしかならず、長い目で見れば使い物にならない。
かつて学問を志したときに、そのときの自分なりに本気で取り組んだことは、めぐりめぐって大きな力となっている。あの頃の志からすれば、今やっていることは全く違うことなのだけれど、分野の違いなどに全く関係なく、もっと深いところで明らかに役に立っている。
私は文章が下手だ。基本的に文章のセンスはない。私の文章は技術で書いている。この技術は、かつての論文指導の賜物だ。論文指導で文章の構成を学び、伝えるということがどういうことかを学んだ。これが基礎となって、今の私の文章がある。もちろん、旧来からの私の書き癖等の影響(=センス)も悪い方向で随所に見られるが、特に構成に関しては、明らかに技術に頼っている。もし、私の書くものがそれなりに読める文章だとすれば、それはセンスではなく技術の産物である。
論文の書き方と論文の読み方は実は表裏一体のものだ。書き方がわからなければ、結局のところ読み方がわかるわけがない。以前に、読書は対話だと書いたことがあるが、対話するためには書き方のルールを知っておく必要があろう。特に文章センスのないものにとって、この技術は不可欠である。論文の書き方の技術を学ぶにつれ、明らかに私の読書方法は変わった。この変化は、今の自分にとって最大の財産である。