異なる価値観の間に絶対的な優劣などないのではないか。仮にあるとしても、誰が判定すればよいのか。結局のところよくわからない。
いずれにせよ、できることは異なる価値観に対する寛容の精神であろう。受容する必要はないが、存在を許容する必要はある。ただし、自己の価値観と衝突しない範囲内であればの話である。
問題となるのは価値観が衝突してしまう場合である。これは各価値観の間に寛容の精神に基づく互譲が必要なのだろう。互譲による調整によってしか、社会は結局のところ調整されないのではないか。結局、個々の「社会性」たるものに頼るしかないのかもしれない。
では、自己の価値観が蹂躙されればいったいどうすればよいのだろうか。そこで登場する考え方は大別2つだろう。ひとつは、自己の価値観が蹂躙されるのを防ぐかぎりにおいて、他者の価値観を犠牲にするというものである。「自衛」といえばピンとくるだろうか。もうひとつの考え方は、価値観の衝突を第三者の判定にゆだねるというものである。互いが認める手続をふんでいるかぎり、紛争の解決にそれなりの正統性が与えられる。
第2の選択をとったとき、問題となるのは、どのような第三者が正統性を有するのかである。近代国家においては司法権を担う裁判所という組織が、大きな役割をはたしているが、それは裁判所にしかできないものではない。個人による仲裁であってもよければ、行政機関であってもよい。もちろん、村の長者様でもよければ、神あるいはそのお告げであってもよい。なんであろうが、しぶしぶであれ、そこにいる当事者が納得できる判定でなければ意味がない。
これを逆からいえば、いかに中立公正であり、真の価値というものを知っている存在であったとしても、当事者を納得させるだけの力がなければ、紛争解決にとっては無力なのである。手続的なところに着目する限り、実態的な結果、すなわちどちらの価値観が優越するのかは問題ではない。
しかし、つきつめて考えると、第2の選択も最終的には第1の選択と何も違いはしない。ただ、第三者をかませることで、客観性を高めるふりをしているだけともいえる。第三者の判定を利用して、自己の価値観の実現を図っているというふうにみれば、結局両者は同じ穴のむじななのである。
この問題は、やはり最初の前提に帰着する。結局のところ、価値観に優劣が存在しないか、あるいは価値観に優劣が存在したとしてもそれを判定できる主体が存在しないのであれば、第1の方法であれ、第2の方法であれ、何らかの力をもってして、相手を納得させるしかないのである。第1の方法は、物理力を表に出しているのに対し、第2の方法は、権威・合理性・客観性など、別の説得力を調達しやすいだけなのである。