右側通行論(その1)

私がよく使う駅の階段には、「ここでは右側通行」たる表示がある。階段にはご丁寧にも黄色い矢印までついている。しかし、私の経験からすれば、たいてい守られていない。なぜだろうか。
右側通行も左側通行も、それ自体から片一方を選択しなければならない必然的な理由はない。自分ひとりであれば、どちらを通ろうとも、何の問題もない。右側でなければいけない必然性はどこにもない。だが、それぞれが自由な選択をすると、右側通行を選ぶ人も左側通行を選ぶ人もいることになってしまう。すると、無秩序がうまれ、人にぶつかることも多く、結局歩きにくくなって、全員にとってよくないことが起こってしまう。
たとえば、ある瞬間をとってみると右側通行よりも左側通行を選んだ人が多かったとしよう。すると、右側通行を選んだ人の方が、左側通行を選んだ人よりもより多くの人にぶつかることになる。この状態では、左側通行の人が右側通行に変更するよりも、右側通行の人が左側通行に変更する方が多いと予測できる。これが一定程度続けば、結局左側通行に収束することになるだろう。
しかし、もし左側通行と右側通行が同数だとすればどうだろうか。変更する人も同数と予測される。すると、残念ながら、そのまま同数にとどまってしまう。とはいえ、この場合、何かの拍子に人数差が少しでも生じれば、どちらかに向かって収束していくことにはなる。
いずれ収束するのだとしても、階段はそれほど長いわけではない。一定程度たつうちに、階段をのぼりおわっている。秩序をもって歩いてもらうためには、はじめから片側に集中してもらう必要がある。そこで、どちらかに誘導するために、たとえば「右側通行」という表示をつくる。この表示に従う人が十分に多ければ、秩序をもった階段通行が実現できるはずである。
右側通行か左側通行かという問題は、どちらかに決めてしまえばそれで済む問題である。当たり前のことだが、1人だけ逆側を通ろうと思えば、やたらと人にぶつかるだけで、歩きづらいし顰蹙を買うことも間違いない。あえてそのような行動をとる合理的な理由はないだろう。
以上の考察は、ゲーム理論におけるいわゆる調整問題の解決方法としてよくあげられるものであろう。しかし、私のよく使う駅の階段では、右側通行はほとんど実現されていない。この解決方法は間違っているのだろうか。
(次回に続く)