外国語は自転車と同じだ、とかつて恩師に言われたことがある。英語力について相談したときだった。当時はとまどうばかりだった。しかし、必要に迫られて英語文献を読む生活は続いていた。
今になって思えば、なるほど、外国語は自転車と同じだ。練習すれば誰でも乗れるようになる。もちろん、すぐに乗れる人もいれば、なかなか補助輪が外れない人もいる。しかし、最終的にはほとんどの人が自転車に乗れるようになっているではないか。
とはいえ、「乗る」といってもいろいろある。「乗る」ことを職業にしている人もいる。競輪選手もメッセンジャーも、分野は違えど、「乗る」専門家である。一方、単なる移動手段として使う人たちもいる。「乗る」技術は雲泥の差である。誰でも乗れるからといって、誰もが競輪選手になれるわけではないし、誰もがオリンピックに出られるものでもない。毎日自転車で通学しているからといって、それがたとえば競輪の技術に直結するわけではなかろう。そこには努力・訓練もあるだろうが、やはり才能の要素も大きいのではないか。
天才とは99%の努力と1%の才能だといわれる。これは努力の大切さをいうために引かれることが多い気がする。しかし、いくら努力をしても、才能の1%はどうやっても縮まらないのである。ひょっとすると、才能によって努力のための投下費用も変わってくるのではないか。才能に恵まれていれば、外から見れば努力・訓練でしかないものでさえ、とりたてて苦労を感じていない可能性がある。結局は、才能の有無が結果に直結している可能性が高いのではないか。才能があっても努力なしには結実しないのかもしれない。しかし、才能がなければいくら努力したってその程度である。
どうやら、私には外国語の才能がない、あるいは著しく低いらしい。比較生産費説的に考えれば、私は外国語に投資するよりも別の何かに投資した方がよいのではなかろうか。その方が私は当然幸せだし、社会全体の便益もほんの少しだとはいえあがるのではないか。
英語を読みながら、ふとこんなことを考えた。考えている暇があったら一行でも先に進んだ方がもちろん効率がよい。しかし、よく考えれば、読まないことがもっとも効率的なのかもしれない。とはいえ、そのためには安価な通訳市場が必要なことはいうまでもない。