結婚について(その1)

友人から結婚予定の報告が届く。昨年も友人が2人ほど結婚した。そういう年齢なのかもしれない。
結婚ってなんだろうね。そういう気配が全くない現状としては、さっぱりわからない。結婚してもわからないことなのかもしれない。婚姻届を出すというただの紙切れの問題に帰着させることもできるのだろうが、そういう形式的な問題ではなく、実質的なところがよくわからない。とりあえず、結婚とは家庭をもつことだといえようか。
家庭をもつということは、それだけの責任が生じるということだろう。夫婦のそれぞれが互いに自己の生活費を稼いでいたとしても、家庭をもつことから何らかの責任が生じることにはかわらない。主婦/主夫は稼ぎはないかもしれないが、やはりそこには何らかの責任が生じていると思われる。
ひとりでいることからは何らの責任も生じない。自分自身に対する責任というように考えれば、責任を想定することもできようが、ここでは責任を他者に対するものと理解することにしよう。ひとりでいれば、そこには他者は存在しない。プライベートな領域においては、責任の生じない状態である。
こういう側面から見れば、結婚というのは責任を背負い込む行為である。責任を果たせるだけの余裕がなければ、とうていとりえない行動ではなかろうか。結婚という選択肢をもつということは、それだけの自信がなければできないはずだ。
私にはまだ責任を背負い込むだけの余裕がない。いったいいつになったらそんな余裕が生れるのかもよくわからない。まあ、結婚は相手がいなければできないことであり、いまのところそもそも相手がいないので問題になりようがないのではあるが、潜在的な問題として、責任を背負い込む余裕が生れるとは、なかなか思えない。
これまで進む道が二転三転してきたわけだが、いまはまだ修行中の身である。いったいこの修行がいつ終わるのかも定かではなく、そのままこの道を歩み続けるつもりもない。だとすれば、自分自身のことだけで精一杯で、責任なんか背負い込む余裕はないのではなかろうか。逆に、余裕が生じるということは、修行が終わり、道の見通しがたつということなのだろう。
人生はひとそれぞれ、さまざまな生き方があるのだろう。いまのところ私は、先の見えない道を歩いているのかもしれない。友人たちは結婚していくのかもしれないが、私にとってしばらくは別世界の出来事であり続けるのだろう。この生き方がはたしてどうなのか、それは人生の幕がおりるときに思うことである。