高等遊民に現在を思う

高等遊民という言葉がある。高等教育を受けながら働かない人たちのことを指す、夏目漱石の造語だという。具体的には、「こころ」の先生がまず思い浮かぶ。なぜ働かないのか。先生には資産があった。他にもそれぞれ、個別に理由があるのだろう。
社会的に見て、高等遊民の存在は望ましいのだろうか。高等教育を受けながら生産的活動をしないのはもったいないともいえる。だが、内田魯庵は差し支えないという。文明の富める国には必ず高等遊民がおり、国の余裕を示す証左だという。高等遊民ができることを恐れて教育の手加減をすることの方がよっぽど問題だと述べる(「文明国には必ず智識ある高等遊民あり」)。
教育が国家的事業だとすると、内田の考えは屁理屈に思える。高等遊民が国家目的に役立っているだろうか。国家が教育の手加減をするのは言語道断だが、高等遊民を生み出さない努力はすべきだという結論になりそうだ。だが、個人の側面に着目すれば、教育は国家的事業と言い切ることはできまい。教養の涵養が教育の最大目的だとすれば、いまだ教育に励む高等遊民をどうしてとがめることができようか。そうすると、内田の意見ももっともに思えてくる。
高等遊民にとって、社会に出ることはあまり重要ではないのだ。教養の涵養にいそしむことこそが本質的な問題である。社会的な成長をとるか、内面的な成長をとるか。高等遊民は後者を選択したのだ。社会での成長にこそ価値を見出す視点からは、高等遊民は見えてこない。