明日で講習も終わる。久々の受験産業だったが、受験の感覚というものは、なぜかなかなか衰えない。これまでの経験の蓄積というものは、なかなかに失われるものではないのだろう。
中学の社会科に関しては、過去に5年間ほど授業を担当していただけあって、何の苦もない。久しぶりだけあって、例年と比べてややペースが遅いとはいえ、これくらいは許容範囲だろう。それに比べると中学の国語はあまり手ごたえがない。自分の方法論が伝達されているかがよくわからない。教材と授業があってないところに問題があるのだろうが、この教材では受験に対応できないわけで。もし冬期講習も同様の教材ならばちょっと問題だ。予め相談した方がよいのかもしれない。
何が問題かといえば、教材すべてが問題だ。とりあげられている文章が古い。最近の文章が全くない。小説は芥川を2作品、宮本輝吉村昭。評論は外山滋比古2作品、石毛直道1作品など。計6作品なのだが、評論として授業するに値するのはこの3作品のみだった。残りは評論というか、随筆ではないか。なぜ太宰治を評論としてとりあげるのか、よくわからない。それにしても、鷲田清一とか小浜逸郎とか、とりあげるべきは多いと思うのだが。
しかも付いている設問が悪い。小説はもっと気持ちを問うべきだし、評論だって論じているテーマについてもう少し突っ込まないと評論を読んだことにならないだろう。だいたい、これでは高校入試に対応できていない。せめて各章の最後にはまともな記述式の問題をいれてくれないと。
とりあげるジャンルにも違和感がある。高校入試の中心は、現代文ではやはり評論と小説であろう。なのに、詩・短歌で各1章、随筆で3章も割いてある。因みに、評論は3章、小説はわずか2章である。詩も短歌も無視して、随筆だってやめてしまって、評論と小説を各5章ずつにしてもらった方が授業する側としてはありがたいし、受験にもぴったり対応しているというもの。
結局のところ、この教材は目的意識を欠いていると断ぜざるをえない。教材は目的に応じて選ばれるべきであるのに、この教材は目的意識を放棄してしまっている。学習塾におけるこの教材のシェアはきっと高いのだろう。その地位に胡坐をかいた結果がこの教材ではないか。
社会科に関してもひょっとすると同じことがいえるのかもしれない。だが、社会科には5年間の経験があったが、国語については経験がなかった。それに今回、手許に教材が届いたのが残念ながら講習開始の前日だった。この教材は、少なくとも私の授業スタイルには合わないものだった。その結果は私の生徒たちに影響するのであって、なんだか申し訳ない。
学習塾の雇われ講師としては、申し訳なさを感じつつ、精一杯の授業をするのが限界なのかもしれない。雇われ講師として、教材選択から根本的に見直すのは難しい。この塾にせめてあと3年くらいお世話になるというのならば、教材選択を見直させるべく進言もしよう。だが、今のところ、この塾にお世話になるのはあと半年という約束になっている。にもかかわらず、教材選択という根本でかき回してしまうと、来年以降に担当される別の雇われ講師に妙な負担を押し付けはしまいか。
だが、よく考えると、それは塾の負うべき負担を何の罪もない生徒に転嫁していることにならないか。しかも塾というもの、同じ生徒が同じ学年にとどまるのは1年間だけである。ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。毎回ある程度の失敗をしても、個人単位でみれば大したことはない。だからこそ、転嫁は容易ともいえる。雇われ講師の担当科目は、まさにそういうシステムに成り立っているのかもしれない。
もし、ここで私が何か動いたとすると、負担は私ではなく、来年の雇われ講師が負うのではないか。結局、私が何かしたところで、それは負担がないからこそできるだけなのかもしれない。雇われ講師業という副業とは長くつきあっているが、かくも一筋縄ではいかない職業なのだ。