現代国語を受験対策として教えるということがいかにたいへんなことか、だんだんとわかってきた。文章の全体構造をつかませるというのが私の基本的なやり方だが、生徒に私の意図が十分に伝わっているかどうか、はなはだ疑問である。生徒5名のうち、こちらの趣旨を理解してくれていると思うのは、1名、せいぜい2名だろう。全く意味がわかっていなさそうなやつもいるから困ってしまう。
知識自体が重要な社会科であれば、こういう心配はいらない。伝える内容は、何を理解するか、どのように理解するか、そしていってしまえば何を覚えるか、である。知識の存在自体は比較的客観的な存在であり、それを客観的なままで伝えようとすることは、決して難しいことではない。
だが、国語はそうではない。読解という作業はきわめて私的な作業である。テクストの存在自体は比較的客観的な存在だろうが、それを読み解くということは、きわめて主観的である。その主観を方法論化して、図式的に示すことが受験対策としての現代国語なのだろう。だが、きわめて私的な営みたる読解という事柄をおおっぴらにしてしまうことのすさまじさよ。