この数年は本当にうまくいっていない。そういうめぐりあわせか。
しかし、逆からみればこれはチャンスでもある。ふらふらせずにまっすぐ生きている人には体験できようはずもないことを積み重ねているのだから。このチャンスをどういかすかは、これからの生き方の問題である。禍福は糾える縄の如し、結局のところ、うまくいっていないことは、次にうまくいく前兆でもあろう。
とはいえ、そういうことをこの数年間ずっと考えているわけで、はたして本当に糾える縄なのか、判断に迷うところである。実はメビウスの輪で、単に堂々巡りを繰り返しているだけなのかもしれない。それは空しい。しかし、どちらかわかるのは、結局のところ、最後まで走った後である。
これまでのうまくいかなかったことを振り返れば、結局のところ、自分の信念というものを変えなかったところに原因があるように思える。第一の関門については、まあ自分の信念という問題よりは、能力あるいは相性の問題なのかもしれないが、そのあとの第二の関門、そして今回の第三の関門については信念の問題であろう。
結局のところ、信念を変えてまでその道に殉ずる気はないわけである。自分を生かすことに価値を見出して選択をしているのだろう。その結果、当然のごとく失敗の山が累々と築きあげられるわけだが、これはある意味、織り込み済みともいえる。
さて、私はいま、信念を変える必要があるのだろうか。守るべき信念であれば、信念に殉ずることこそがひとつのありうべき選択であろう。ただ、信念にもその解釈はいろいろあるわけで、そのうちのどの観方に殉ずるかが難しい問題である。
数ヶ月前に書いた分岐路という点から同じことがいえるのかもしれない。他の選択肢を半ば強制的に消そうとしたところ、どこかで長いスパンでの見直しを迫っているということか。まあ、その結果がここ数年の停滞ではあるのだが。そして、いくら長いスパンといっても、それがあまり長いようではもうみんな死んでしまっている。
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