小学生の頃、「好きな言葉」という題の作文を何度か書かされた。毎回「努力」という言葉を選んでいたように思う。小学生風情で「好きな言葉」なんてあるはずもないわけで、こういうありきたりな言葉を選んだわけだ。
今同じ題で作文を書くとしても、「努力」はまず選ばないだろう。努力自体は素晴らしいことだと思うが、努力だけからは何も生まれない。結果と結びつかなければ、その努力は評価できないのだ。もちろん、だからといって結果と結びつかなかった努力が無駄というわけではない。ただ、そのときは結果に結びつかなかっただけで、思わぬときに何らかの結果を生む可能性がある。しかし、努力はやはり過程であって結果ではない。過程と結果はやはり別のものだ。
オリンピックは参加することに意義がある、というが、それはもはやそれ自体が結果だからである。参加自体はもはや過程にすぎなければ、参加だけでは評価できないだろう。いくら立派な過程があっても、それ自体は評価の対象ではない。結局、過程とは、結果が芳しくないときの慰みでしかないのだろう。
とはいえ、過程を無視することは妥当な結果を生まないこともある。「努力」という言葉にはやはりそれなりの価値はある。小学生であっても、作文を書くからには、「努力」という言葉の価値を感じていたのだろう。「努力」なんて過程の最たるものである。過程から得られる価値について、当時はきっと何らかの感覚をもっていたのだろう。
いつの頃から、その価値を忘れてしまったのかもしれない。
・・・
左足痛の原因は外反母趾だろうと予想していたので、いずれ右足もと思っていたら、とうとう右足痛がきた。こうなるとやはり外反母趾だろうか。今日は左足痛が普段より頻繁な気がする。