脱モラトリアムが怖いのかもしれない。つまり、社会に対する恐怖ということか。まあ、長くこういう怠惰な生活をしていればそういうこともあるだろう。結局のところ社会から逃げていたわけで、そういう状況では何をいっても説得力がない。社会に向けてここへ来たものの、別の見方をすれば、それこそがモラトリアムの延長というわけで。心の底ではモラトリアムの延長を望んでいるのかもしれない。だが、それは逃げているだけではないのか。
選択の自由というのは時間の経過とともに狭まっていくわけで、自由を謳歌するのは若者の特権である。だが、謳歌する若者は、いずれ自分も齢を重ねることに気づかない。ふと気がつくと、そこにあったはずの道がもはやなくなっている。ひとりぽつりと取り残されたことに気づき、愕然とする。しかもその責任をひとりでは負いきれず、より大きな問題にすりかえてしまう。
自分の活躍すべき場所など、探したって仕方がない。本当にやりたいことを探すことは一見美しい。しかし、そんなものがはたして簡単に見つかるというのか。砂漠に隠した砂を探すようなものではないか。探したものは見つからず、結局のところ、道を失い、今に妥協するしかなくなる。僥倖を得たものは、誰でも見つけられると考える。女神においていかれた多数の者は、過去を懐かしみながら、社会が自らを受け容れてくれなかったと、すべてを時代の責任にする。
森に隠した木の葉を安心して探せる者は、結局のところ、社会を見ていないだけなのかもしれない。私ももう自由を謳歌してはいられまい。そろそろ、社会に生きることを考えなければならない。それは、今に対する妥協ではなく、社会と正面から向き合うことだろう。