選択肢をもっているということは、一般にすばらしいことである。しかし、逆に言えば、定まっていないということでもある。分岐路にさしかかるときの選択は、非常に悩ましい。他人からみれば贅沢な悩みであろうが、本人にとっては真剣な悩みである。
よく考えれば、実は誰もが多かれ少なかれ選択肢をもち、選択のときを迎えている。しかし、それが分岐路であり、自分自身が選択肢を有していることに気づいていないだけである。気づいていないからこそ、他人の悩みが贅沢なもののように見える。もちろん、隣の芝生は青いわけで、他人の選択肢がうらやましく見えるのは仕方がないが、ただ傍観しているだけではなく、自らが本当はもっているはずの選択肢を見返すことの方が大切である。
何かひとつの選択をすると、それ以降の存在しうる選択肢が見えなくなるときがある。自らの選択に忠実であるがために、無意識のうちに選択肢を忘れているのだろうか。選択肢の喪失は、瞬間瞬間にとっては重要なことである。分岐路は悩みであり、悩みは前進を妨げる。一度ひとつの岐を選んだ以上、細かな選択にこだわるよりは、その岐を多少の無理はあれ突き進んだほうが、さしあたりはよいに決まっている。しかし、ときには長いスパンでものを見てもよいのではないか。そのとき、ふと実は目の前に存在している分岐路に気がつくのである。
悩みというものは、それ自体としては基本的に非生産的である。しかし、非生産的であるがゆえの価値もあるのではないか。たまにはあえて前進を止めることによって、その後の飛躍がうまれることもある。たとえ飛躍がなくとも、止まることで何かが変わるのかもしれない。
To be or not to be, that is the question.